自分が子供の頃は、はっきり言ってド阿呆に分類されてました。5段階評価の通信簿の平均が 3 未満で、5 はひとつもなく 1 はちらほらという状態でした。覚える系が特に苦手で、応用とか創作系はどちらかと言えば得意だったかな。図工で針金をコネてひよこを作ったのは覚えています。
小学校時代はテレビゲームは存在していなかったので、外での遊びは…ちょっと変わってました。板に釘を打ち付けて、ピンボールのようなモノを作って、ビー玉が外れたら私のもの、ポケットに入ったら2個とか3個とか払い戻すような事をしていました。室内だと紙にひたすら迷路を書いていたり、ブルース・リーのカンフー漫画を教科書に書いてペラペラマンガを作ったりしていました。
自分にとって中学はさらに絶望の時期で、何も面白い事はなかったです。ただ、ステレオでレコードを聞いたりはしてたかな。榊原郁恵ちゃんが大好きで LP をよく聞いていました。
高校に入ると、様子が一変します。小学校中学校と馬鹿阿呆間抜けの代名詞だった自分が、高校に入ったらいきなり学年上位の成績だったんです。なんだ、成績って絶対値じゃなくて相対値なのかよと、…当時は思ってはいませんが😓 それでも楽しくて突然勉強が好きになったのを覚えています。工業高校だったので数Ⅰから応用数学しか習いませんでしたが、そこで学んだ微分積分三角関数ベクトルに関しては、今でも大いに役に立ってたりします。
また、当時は検定に出るのが楽しくて様々な検定に精力的に参加しました。その中で、電卓の速さと正確性を競う高校対抗の電算技術競技大会(正式名称は違ってたかも)というのがあり、そこに参加したところ東海地区個人1位という成績が出てしまいました。メモリ機能などを効果的に使ったことで速さと正確さを両立した…のかなと思うのですが、正直、よく覚えていないです。まあ、賞状は残っているので現実だったのだとはわかりますが😓
また、愛知県太田川市に電算センターという場所があり、そこまで電車で出かけてパンチカードや紙テープでプログラムの入力と実行をする実習があったりしました。いやー、楽しかったですね。特にパンチカードで銀河鉄道999を描いた記憶があります。2進数で穴が開く位置が変わるので、どのキーを打てばどこに穴が空くのか調べてと、実習内容そっちのけで遊んでました。いやー楽しかったなあ😁
その後、たまたま出かけたカトー無線電気館(今はもう存在していません)というお店で、日立の BASIC MASTER LevelⅡというパソコンに出会います。それまでも何度か見かけていたのですが、ここでは取扱説明書とともに自由に触らせてもらえたのです。そこの BASIC プログラムを何の気なしに入力して RUN したら、おおおおお、UFO が画面の端から飛んで行くじゃないですか。凄い、テレビに自在に絵が出せる!それからすっかりパソコンの虜になったと記憶してます。
そして、自分用のパソコンが欲しくて、ただひたすら朝夕の新聞配達をしました。2年ちょっとは働いたかと思います。そのお金とお年玉を合わせて購入したのが PC-8001 でした。それにカラーモニター、AIWAのデータレコーダー、精工舎のドットインパクトプリンター、工人舎の 5"2D 2ドライブFDD、PCG8100、アド電子の3和音ボードと、贅沢の極みのような構成にしまして…たぶん、50万円ぐらいはつぎ込んだのではないでしょうか。
※ PS4コントローラって何気にPC用コントローラとしても優秀なんですよね。
最初に何故か BASIC でコンピュータ対戦型のバックギャモンを作りました。それなりに強かったですが、自分の考えをそのままコード化した感じなので、相手が打つ手が予想できてしまい、面白さはいまひとつでした。これはソースは残ってないです。次にカエルがぴょんぴょん飛び跳ねる、虫を食べるという海外のゲームのコピーみたいなのをマシン語込みで作りました。当時は自分でアトリビュート制御したと思いこんでたんですが、あとから解析したら、ROM内ルーチンコールだったというオチつきで😓
これを工学社の月刊アイオーに投稿したら、見事採用されたのは嬉しかったです。原稿料として少しだけお金を頂きました。その後2~3本未発表のゲームを作りました。Jungle RUNNER とか、ASTROID WARS とか。
さらに調子に乗って作ったのが自身初のオリジナルゲームULTRAMAN JR.です。ま、まあ、ウルトラマンとかカネゴンとかゴジラだとか、商標とか侵害しまくってるのですが、当時の内藤少年はそういう権利のことを知らずにいて…。BGM なんてスティングですからね。採用した理由も楽譜があったからという単純なものでした。
でも、当時の自分としてはそれなりによく出来ていたので、第1回アスキーゲームコンテストに投稿したところ、6位入賞を果たしました。出来栄え的には3位ぐらいだったらしいんですが、5位以内は商品化すると約束されていた手前、商標権などを侵害しまくった私の作品はとてもじゃないけど販売できないという理由で6位だったと聞かされます。内藤少年はそこで初めて、商標権という大人の事情を知ることになるのです😁
その後は、仕事で嫌なことがあって、このウルトラマンJR.のソースコードを持って、ゲームソフト会社に面接を受けて入社して…という、皆様方も良く知るその後の経緯となるわけです。ホント、好きこそものの上手なれですが、ふと電気屋さんで触ったパソコンが、自分の人生を大きく変えちゃっただなんて、面白いと思いませんか?
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